現在の介護業界の最大の課題は「人材不足」と言えるでしょう。
介護保険制度の発足によって、介護サービスの事業者数は激増しましたが、事業の中核となるリーダーが絶対的に不足しています。
事故やトラブルの増加、介護スタッフの早期離職、倒産事業者の増加など、現在、介護業界が抱える様々な課題の原因は結局のところここにあります。
ヒヤリハットや各種のリスクに対するサービスレベルの維持は、これからの介護業界において不可欠となる視点です。
また、それは施設長やサービス管理者、経営者のみに求められる知識・ノウハウではなく、すベての介護労働者に求められるものです。
サービス管理の基礎である「介護リスクマネジメント」について整理しておきましょう。
介護現場のヒヤリハットや事故のリスク
介護の訴訟リスク
介護サービス事業所、高齢者住宅、介護保険施設のホームぺージやパンフレットには「安心・快適」といった心地よい美辞麗句が溢れています。
しかし、そのサービスの対象者は、筋力だけでなく視力、聴力、判断力、俊敏性、バランス、骨密度など、あらゆる身体機能が低下した要介護高齢者です。
認知症によって予想できないような行動を起こすこともありますし、「できることは1人でやろう」という自立心が、転倒や骨祈事故の原因になることもあります。
そのサービス内容、対象者の特性を考えると、無条件に安心や快適を請け負うことができるわけではありません。
その一方で、介護サービス利用に対する高齢者家族の権利意識は強くなっており、事故やトラブルが与えるリスクは、以前とは比較にならないほど大きくなっています。
介護スタッフの直接的な介助ミスによる事故でなくても、裁判では「予見可能性あり」「安全管理義務違反」と高額の損害賠償が認められています。
クレーマーが職員を退職に追い込む
病院でのモンスターペイシェント、学校でのモンス夕ーペアレントと同じように、一部暴走した権利意識を持つ高齢者や家族の波は、介護サービス事業にまで押し寄せています。
それは、優秀な介護労働者が離職する原因の1つになっています。
転倒や骨折事故が目の前で起こると、その発生を防げなかった、利用者にケガをさせて申し訳ないという後悔の気持ちが強くなります。
できていないこと、やらなければならないことばかりが目に付き、同じような事故やトラブルがまた起こるのではないかと大きなストレスになります。
また一生懸命に介護をしていても、一部の家族からは「部屋が汚い」「ちゃんと介護しているのか」と厳しい意見が投げられます。
その結果、貴任感の強い真面目なスタッフほど、精神的に追い込まれて退職し、更にサービスが低下するという悪循環を生んでいます。
それはサービス現場のリスクだけでなく、経営上のリスクでもあります。
介護業界に注目が集まるということは、同時に厳しい視線が注がれているということです。
重大な過失による死亡事故やスタッフによる虐待事件は、マスコミに大きく報道されます。
「インフルエンザ」「ノロウィルス」で集団感染が発生し、死亡者がでると、初期対応の遅れ、報告不備など厳しく糾弾されることになります。
その結果、介護スタッフの大量離職、新規求職希望者の大幅減を招き、更には「劣悪な事業者」「サービス管理が適切でない」と、高齢者や家族、地域の関連サービス事業者からの信頼は失墜し、事業の継続が困難になります。
進まない介護業界のリスクマネジメン卜
損害賠償の裁判事例を見ると「事業者に厳しすぎる」と感じるものが少なくありません。
特に認知症高齢者の転倒事故など「予測不可能な行動をすることは予見できた」と言われると、転倒リスクのある認知症高齢者の受け入れは現実的に困難になります。
一方で、その対策であるリスクマネジメントは、業界全体として大きく遅れているということも事実です。
その原因は、2つあります。
これまでの古い体質や甘えを引きずっている
介護保険制度が始まるまで、介護は老人福祉施策の中で行われていました。
高齢者や家族ともに「福祉にお世話になっている」という意識が強く、サービスに不満があっても苦情や文句を言う人はほとんどいませんでした。
そのため今でも「介護はサービスだ」「お客様第一主義」などと言いながら、家族から意見や苦情を受けると「うるさい家族だ」「嫌なら家で介護すればいい」と、介護してやっていると言わんばかりの人も少なくありません。
これではヒヤリハットに敏感に反応し、大きな事故を防止しようという発想にはならないのです。
閉銀的な事業の特性
介護業界は、新規参入事業者の多いのが特徴です。
「介護は儲かる」という過剰な期待のもとで、事業拡大が優先され、サービス提供上発生するヒヤリハット、事故やトラブル、リスクについての検討が後回しになっています。
ヒヤリハットが頻発し、いつ重大事故が発生してもおかしくないような危険な介護をしている事業者もあります。
また、介護サービスは、利用者や介護スタッフが限定伽される閉鎖的な環境で提供されるため、骨折や死亡などの重大事故が発生しても真実が明らかになりにくく、業界全体として積極的な公開、議論が進んでいません。
実際、毎日のようにヒヤリハットに遭遇しているはずの特養ホームの施設長やディサービス、訪問介護の管理者に「どのようなリスクがあるのか」と聞いても、整理して適切に答えられる人は一部に限られます。
「老人ホームやディサービス内で発生する事故のすべてが事業者の貴任ではない」という声をよく耳にしますが、「事業者の法的貴任とは何か」「どのような場合に貴任を問われるのか」という基本的な質問にも答えられる管理者はそう多くありません。
リスクマネジメントは、利用・生活する要介護高齢者の安全な生活環境、介護スタッフの安全な労働環境、そして介護サービス事業の安定的な経営環境の土台となるものです。
介護業界として、サービス提供货任の範囲や、効果的な予防対策、介護事故に対する社会的な啓蒙活動など、事業者の枠を超えて検討すべきことはたくさんあるのですが、まだほとんど進んでいないというのが実態なのです。
リスクを正確に把握する
リスクマネジメントの基礎になるのが、業務上発生する事故やトラブルなどのリスクを正確に把握することです。
これは事故の芽となるヒヤリハットを正しく管理していれば、容易に気付けることなのです。
介護サービスの提供上、発生するリスクを大まかに整理したものです。
転倒、骨折などの事故
感染症蔓延、食中毒発生
サービス内容、質への苦情
スタッフの労務災害
利用料に対する苦情
スタッフによる介護虐待
火災・地震などの自然災害
事故だけでなく、自然災害や感染症、家族からの苦情やクレーム、腰痛などの介護スタッフの労務災害もその対象です。
例えば、事故の種類は「転倒」「転落」「誤嚥・窒息」「火傷、熱傷」「溺水」「挟み込み事故」「ぶつかり事故」「誤薬」「異食」などがあります。
その事故が廊下、食堂、浴室などのエリアで起きるのか、どのような介助場面、生活場面で多く発生しているのか、その原因や特性を整理・分類することは可能です。
高齢者の要介護状態によっても、想定すべき事故の種類は違ってきます。
自立歩行の高齢者に多いのは、つまずき、ふらつきなどによる転倒事故です。逆に車いす高齢者は、転倒はなく移乘時の転落事故が多くなります。
地震発生時の津波のリスクは、同じ市町村でも建物が高台にあるのか、海の近くにあるのかによって変わります。
立地によっては、ゲリラ豪雨による河川の氾濫、裏山の崩落リスクも想定しなければなりません。
感染症や食中毒も同様です。
高齢者は免疫力が低下しているために罹患しやすく、重篤な症状になる可能性が高くなります。
インフルエンザやノロウィルスなどは、毎年流行する季節が決まっていますし、数年に1度は大流行します。
これらのリスクの想定は、事業種別によっても変わってきます。
ディサービスでは、送迎中の交通事故も大きなリスクの1つですし、送迎中に大きな地震が発生したときに、どうするのかも話し合っておくべき事項です。
その他、訪問介護では同居している家族とのトラブルや、男性利用者からのセクハラも検討すべきリスク要因となっています。
リスクの効果的な対策を検討する
リスクが整理できると、それぞれに必要な対策を考えていきます。
例えば、同じ苦情やクレームでも、その対策は違います。
金銭に関する苦情は、事前に見積書を提出するなど、「月額利用料に含まれる費用」「含まれない費用」「追加になる費用」を丁寧に説明しておけば発生することはありません。
費用に対する苦情の発生は、ほぼ事業者の責任です。
これに対して、サービスに対する苦情は少し違います。
「部屋が汚い」「いつも同じ服を着ている」などの意見が家族から寄せられることがあります。
ただ、きれいに掃除してほしい人もいれば、細かいところに触れてほしくない人もいます。
また、何を着たいのかは人によって違いますし、本人と家族の意見が違うこともあります。
そのため、ケアカンファレンスや個別の家族面談などを通じて、「サービス向上のためにご意見をいただけませんか」「清掃はこのようにさせていただいていますが、いかがですか?」と積極的にコミュニケーションをとり、小さな意見や不満をくみ取る工夫が大切です。
介護施設の防災対策リスク
事業者のリスクマネジメントに対する意識が、はっきりと現れるのが防災対策です。
要介護高齢者は災害弱者です。
特に介護保険施設や高齢者住宅では1つの建物に集まって生活しているのですから、夜間に火災が発生すると多くの高齢者が逃げ遅れ、大慘事に発展します。
そのため、特養ホームや有料老人ホームでは定期的な防災訓練が義務化されています。
ただ、全てのスタッフが真剣な表情で、大声を上げて訓練を行っている事業所もあれば、レクレーションのように笑いながら楽しそうに行っている事業所もあります。
どちらがリスクマネジメントの意識の高い事業者なのか、サービス管理が適切にできているのかは一目瞭然です。
ひどいところでは「防火管理者の名前が数年前に退職したスタッフのまま」「防火扉の前に段ボールが積み上げられている」という事業所もあります。
自然災害のリスク
自然災害も同じです。
述べたように、地震や豪雨などの災害が発生しても、立地によってそのリスクは変わってきます。
それは各市町村が策定しているハザードマッブを確認すればわかりますし、消防署に相談すれば、防災のプロが一緒になって真剣に考えてくれます。
想定されるリスクに合わせて、防災マニュアルを策定し、避難訓練を行わなければなりません。
「防災対策、夜間想定訓練、一応やっています」だけでは、何の意味もないのです。
火災や自然災害は、高齢者の生命にかかわる最大のリスクです。真剣に防災訓練が行われていない、立地に合わせて防災対策ができていないのは、リスクマネジメントの基礎ができていないということです。